|
|
ユダヤ人
ベルベル、そしてアラブ以外の1%の中に数えられるのが、外国人、およびユダヤ系住民です。
イスラムの国なのに、ユダヤ人が暮らしているの?と不思議に思う方もいるかと思いますが、モロッコのユダヤ人ははるかローマ時代から現在のモロッコにあたるかの地にコミュニティを持って暮らしてきたと言われています。
モロッコ国内では、ことわざや格言などでお互いに自分の宗教が一番だと言っては競いあい、けちをつけあってはきましたが、パレスチナ問題などにみられるような激しい対立はしないで暮らしてきた歴史があります。
アトラス山中のユダヤ人は、先住民族であったベルベル人に言語や生活様式などの多くの面で同化し、ベルベル人ユダヤ教徒として近年まで暮らしていましたが、その多くが、イスラエルの建国とともにモロッコを離れていきました。
また、フェズにも多くのユダヤ人が暮らしていました。
これは、レコンキスタでイベリア半島を追われたユダヤ人が、当時の王朝「サアード朝」(1525〜1659)の王都であったフェズに住み着いたもので、この時は歴史的にも国内で最大のユダヤ人人口を抱えていたということです。
以降も数多くのユダヤ人がフェズ、そしてモロッコ各地にくらしていましたが、このユダヤ人もまた、イスラエルの建国、そしてそれに次ぐモロッコの独立によってかなりの数が海外に移住していったということです。
それでも現在も、いくつかの地域に残るユダヤ人の聖人のお祭りの機会には、多くのユダヤ人がお祝いをしに戻って来るのだとか。
さて、世界的にその知恵で知られるユダヤ人は、モロッコにもいろいろな文化の置き土産を残しました。
南部モロッコで生産されるマヒヤと呼ばれるいちぢくの蒸留酒や、銀を使ったアクセサリー製作の技術などは、ユダヤ人から伝えられたものとされており、現在も彼等が好んで使ったユダヤの星のモチーフ等が、モロッコの銀細工の中にも見られます。
また、南部モロッコで見られるくずれつつある多くの大きなカスバは、ユダヤ人の家族の所有であったものも少なくありません。
この他、
今もモロッコ各地のメディナに残るユダヤ人居住地域はメラーと呼ばれ、出窓やバルコニー等がある建築が残っており、ユダヤとモロッコの文化がまざりあった独特の雰囲気を持つ文化に出会う事ができます。
(ユダヤ人がいなくなった後は、そこに所得の低いモロッコ人が住み着いた事もあり、メラーといえば貧乏地域の代名詞のように言われていますが)
モロッコのユダヤ教徒は、ユダヤ人としての自分達の信仰や生活の習慣を守って暮らす一方、言語や文化の面ではアラブの色の強いモロッコのそれを共有し、生活の中で、男性はユダヤの言葉であるヘブライ語を話す人もあったようですが、多くの場合、他のモロッコ人と同じように、モロッコのアラビア語を話して暮らしていたそうです。
アラブだユダヤだと、必要以上にこだわらず、よき隣人として暮らしてきた歴史に学ぶものは多いですね。
そしてモロッコに暮らすユダヤ人といえばこんなエピソードも。
第二次世界大戦中、モロッコはフランスの被保護国となっていましたが、その当時、フランスにはヴィシー政府というナチスの傀儡政府がありました。(ちょうど映画の『カサブランカ』の頃。映画にもこの名前が登場しています)
ナチスによって動かされていたのですから、当然ユダヤ人に対する迫害を要求されており、その火は当時まだ数多くのユダヤ人を抱えたフランスの植民地、モロッコにも飛んできたのです。
けれども、ユダヤ人迫害を要求された当時のスルタン、ムハンマド・ベン・ユーセフ(後のモロッコ建国の父、ムハンマド5世)は、この要求を、自分には臣下を守る義務がある、として断固拒絶したという、なんとも勇ましい逸話が残っています。
|
|