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11世紀半ば、(1030〜70年頃のお話)サハラに住んでいたベルベル人の軍隊が、アトラスを越えてやってきました。
既にサハラ一帯を治めていた彼等のリーダー、アブーバクルですが、ようやくアトラスを越えたところだというのに、サハラ方面での家臣の反乱を知り、軍隊と妻たちを残してサハラに戻ることとなってしまいました。
残された軍隊のリーダーであったユーセフ(ユーセフ・ベン・タシュフィン)は、平原の、岩山にかこまれた場所にキャンプをおきました。(この岩山は、現在のInstitute Francais付近)
異国から戦争を目的にやってきた軍隊。
一説にはそのあたりを通過するキャラバンが、その軍隊に税金を納めなくてはならなかったため、また、別の説ではその軍隊が苦しい暮らしのためにそれらのキャラバンから強奪を行った、といった理由で、次第に
そのあたりを通らなければならなかった人々にとって、
この場所は「早く通りすぎた方がいい場所」と呼ばれるようになっのです。
早く通りすぎた方がいいところというわけでついた名前が「早く歩け」。
これは、ベルベル語でMarrouksh(マルゥークシュ)と発音され、これが転じてこの街がMarrakechと呼ばれるようになった、というのがマラケシュの名前の由来と言われています。
その後の史実
砂漠に戻っていってしまったアブーバクルはそれから何年かこの土地に戻ってくることはできなかったようですが、その間にユーセフがマラケシュに水をもたらすことに成功し、現在のマラケシュの発展の基礎を築くこととなりました。それから約40年後、マラケシュはその水のおかげて発展をとげ、めでたく、その勢力をイベリア半島からアルジェのあたりまで広げる事となったムラービト朝の首都となることになったのです。
またマラケシュは現代においても先代の王様であるハッサン2世にとても愛され、「噴水の街」を目指してつくられていたようですが、それはただの荒れ地だったところに水がもたらされたことによって発展することになったマラケシュの歴史を偲ぶためだったのかもしれません。
また、平原の中に唐突にあらわれるマラケシュのまわりのやしの林も、昔話でいわれる生い立ちの歴史とはまた少し異なり、マラケシュの基礎を築き上げたこのサハラの人々になつめやしの木を植える習慣があったため、というのが学問的な解説になっているようです。 |
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