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いつものように青い空。
となりの街まで車を走らせながら、ぼろぼろのカーステレオから流れてくるベルベル音楽を聞きながらふと思った。
窓の外に広がる雄大なアトラスの山々。
乾いた茶色の大地を進む私の耳に響くその音楽は、まさに「今」「ここ」だから、よけいに美しく聞こえる。
「この音楽は、この景色にとっても似合うね」
ふとつぶやいた私に答えたさりげない友人のセリフが、今も心から離れない。
「音楽はね、風景と結婚しているんだよ」
...風景と結婚している。
いろんな土地の音楽を聞きながら、やはりその音楽がはえるのはその生まれた土地だよな、と思ってはいたものの、その不思議な一体感をどう説明したものかずっとわからずにいたところに聞いたセリフがこれだった。
そうか、そういうことなのか。
音楽が、自分の中にしみ込んできたような気がした。
世界中の街角に溢れる現代の音楽の多くが根ざしているのは、きっと風景とか土地とか、そんなものではもはやない。
今やそれはその土地の心をきざんだものというよりは、だれだれ、というアーティスト個人、あるいは時代の心を刻んだものだろうし、そしてまたそれは、ある特定の状況という可動性のあるものの上に根ざしているといっていいかもしれない。
だからこそ、発信者がだれであれ、恋愛やら政治状況、時代の気分なんかに乗って、世界中どこにでも広がっていける可能性を秘め、国を越え、文化を越え、人々の心の中に、その時代の思い出として残ることになるのだろう。
けれども民族音楽は、その生まれた土地からどこかでいつも離れない。
その調べが奏でられた瞬間、遠い異国の情景が、固まりになって自分を吹き抜けていくような気がする。
大地を踏みしめて刻まれたアフリカのリズム。
森の中を突き抜けて広がるドラムの響き。
張りつめた空気をふるわせる和太鼓の祈り。
甘いかおりの森の湿度ととけあって響くガムランの音色。
石造りの空間に響き渡る賛美歌の調べ...
そんな響きがつくり出す空間は、強くたくましく、そしてどこかに懐かしさが感じられてしかたない。それはその響きが、生まれた土地の空気感や空の色、大地のにおいをうつしたものだからなのかもしれない。
だまって聞いていればいいのかもしれない音楽について、頭の中ではずっとそんなふうに思っていたのだが、「音楽は風景と結婚している」そう言った友人のセリフほど、その感覚をこれほど明確に、そして簡単に説明したセリフもないかもしれない。
同じモロッコでも、山岳部のベルベルの音楽は、フェズやマラケシュの風景の中ではどことなく浮いてしまうし、同じように都会の繊細な音楽はダイナミックな自然の中になんとなく弱々しい。
結婚、か。
音楽そのものは、どれもどこかの土地で生まれたものに変わりはないが、音楽そして土地の両方がお互いを求めあい、響きあう民族音楽の姿は、まさにそれなのかもしれない。
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